随筆〜その2

Vol.21 不安障害(パート1)

 最近は不安障害と言うようになっている。その診断基準を見ると症状や訴えが雑然と並べられているだけで頭にイメージしにくいので、私自身はやはり昔風の神経症(ノイローゼ)の方が好きである。すなわち不安神経症、恐怖神経症、強迫神経症、抑うつ神経症、ヒステリー神経症、神経衰弱などがある。
 神経症の原因は子供の頃の親との葛藤が解決していなかったからだと言う。よく言われる『反抗期がなかった』ということである。通常は子供は“親に反抗する”すなわち“親と闘う”ことによって成長するものである。
 そういう“闘いの段階”を十分に経験せずに社会に出て行けば、例えば大勢の前でスピーチをしなければならなくなったときに強い不安や恐怖感を覚えることになる。そういうスピーチの場面も“闘いの場”なので“闘いの習慣”が身に付いていなければ乗り切ることが難しくなる。そのために社会生活に支障が出るようであれば恐怖神経症ということになる。
 一方、本人の心の中の内的世界に目を向けてみると、そこには余り良くない対象関係が存在する。すなわち「大丈夫だよ」と本人を勇気づけてくれるような“良い”内的対象の不在である。それどこか逆に本人を攻撃するような“悪い”内的対象が存在している。それはまわりに本人が良いと感じる人が少なかったから心の中に良いものを形成できなかったという理由による。
 そんな良くない内的対象は本人によって例えば大勢の聴衆に投影され、今度はまわりの人たちに攻撃されるように本人は感じて不安と恐怖を覚えることになる。
 治療法として精神療法があるが、以上のように自己の内的世界を見つめていけたらよいと思う。その他に脱感作法があり徐々に面前で話す機会を増やしていくことによって慣れていくことができる。さらに薬物療法もある。

Vol.22 不安障害(パート2)

 不安障害にはその他に代表的なものとして強迫性障害とパニック(恐慌性)障害がある。
 強迫性障害においては例えばカギの確認とか手洗いなどの強迫行為を繰り返すために日曜生活に支障をきたす。内的に見ると同一人物に対して良い感情と悪い感情を同時に抱くためにどっちつかずの葛藤状態になりやすい。その悪い感情が意識にのぼろうとしたときに強い不安を感じるため抑圧する。その抑圧がうまくいかないときに不安が生じるので強迫行為によってその不安をまぎらわそうとする。
 また日常生活上のストレスも症状を悪化する原因となっているので本人の身のまわりの環境を見直していく必要がある。さらに本人を支えてくれるような良好な人間関係の存在が大事である。さらに本人が具体的に取り組むべき課題はそれまで避けて来たことを敢えてやってみたり強迫行為を意識的にやめてみたりすることである。 
 一方、パニック障害という呼び名が始めて登場したのは1980年のことのようなので大変新しい病名である。パニック発作の特徴は突然、動悸や息苦しさなどが生じて死んでしまう程の恐怖に襲われることである。そのために日常生活が障害されればパニック障害ということになる。
 内的に見れば自分が滅びてしまうんではないかというくらいの恐怖感が心の奥に潜んでいる。それは実際に本人が過去に味わった何らかの恐怖体験をもとにしている。その秘められていた恐怖感が何らかのストレスを契機に突如意識の中に現れてきたときにパニック発作となる。そう私自身は理解している。
 まず必要なことは何がストレスになっているか見極めてその対処法を考えていくことである。さらに大事なことは本人の心の中の恐怖感を理解してくれる人たちの存在である。その人たちとの関係によって本人の心の中に恐怖から守ってくれるディフェンダーのようなものが形成される。

Vol.23 主体性(パート1)

 病気をきっかけに症状を取るだけでなく本人のこれまでを振り返っていく。振り返っていくとそこには本人がぶち当たったハードルが存在する。その多くが人間関係上のストレスである。現在は社会に出れば人間関係が闘いの場になることもある。従って闘う力が必要となる。
 その闘う力の根源はどこにあるのか?それまで競争にもまれて闘ってきた経験があるかどうかにかかっている。さらに私たちは遠くエディプス期の葛藤(注記1)にさかのぼることができる。そのときの親との葛藤は一種の闘いである。しかもお互いに有益で意味のある闘いとなる。その中で子供は闘う力を獲得する。闘う力というか競争に食らいついていく力だ。さらに闘うためには“敵”を知ると同時に自分自身を知ることも必要だ。それを可能にするのが前エディプス期の葛藤(注記2)で得られたものである。すなわち相手の心情を思いやる力や辛い事に耐えていく力などである。
 それらの力は他力に頼りすぎることなく自力でやっていく上で必要な力である。そこには自らハードルを乗り切っていこうとする主体性がある。

(注記1)エディプス期の葛藤:フロイトの有名なエディプス・コンプレックス。3~4才頃の反抗期に相当する。子供は父親との葛藤の中で父親の力強さを獲得する。
(注記2)前エディプス期の葛藤:メラニー・クラインは2つのポジションについて述べている。
①妄想ー分裂ポジション(生後から6ヶ月の間);
 空腹のとき適切に母親によってミルクが与えられれば、赤ん坊の心の中には安らいでいる良い自己と良い乳房が存在する。しかし例えば母親が忙しかったりして適切にミルクが与えられなければ、空腹で苦痛にあふれた悪い自己と適切でない悪い乳房が存在することになる。そのとき赤ん坊は母親を良い乳房や悪い乳房というように“もの”として部分的に捉えているだけで、一人の母親として捉えている訳ではない。
 つまり赤ん坊は自己の快か不快かの気持ちによって良いものと悪いものとに分割しているのである。そして自己の良いものを守ろうとして悪いものを自己の外に排出しようとする。しかし今度はその排出した悪いものから逆に攻撃されるのではないかという妄想的な不安が生じてくる(迫害不安)。実はその悪いものは赤ん坊自身の攻撃性を投影したものである。
②抑うつポジション(6ヶ月から2才くらいの間);
 悪いものに攻撃されたと感じた赤ん坊は反撃に出る。そして悪いものを破壊してしまったと感じたとき、実はそれが良いものでもあることに気づく。つまり悪い乳房だと感じて攻撃したのだが、それが良い乳房でもあることに気づく。そして愛する母親を傷つけてしまったと絶望感や非哀感などが生じて抑うつ的になり、相手に済まなかった償いたいという気持ちが生じる。このとき良いものと悪いものというように別々に感じていたものが同じ対象であると全体的に捉えるようになる。

Vol.24 主体性(パート2)

 主体性というときに私が思い出すのがサルトルの実存主義哲学だ。人は生まれたときは何者でもなく白紙の状態である。従って何者かであるために自分で自分を作り上げていく。自らの感情に従い自らが選択し自己責任のもとに行動する。そこにはやはり主体性がある。
 以上のように実存主義と精神分析との間に主体性という共通するものを私は感じる。その主体性が十分に獲得されていれば問題はないが、十分でない場合に病気になることもある。まわりに振り回される結果疲れ果ててしまうためだ。そして病気になってこれまでを振り返る。振り返ればそこには過去の重要な人物との葛藤が見えてくる。
 その葛藤の問題をどうやって解決するのか?直接その重要な人物と対峙する場合もある。そういうチャンスがない場合は実地体験しかないと思う。社会の中でうまくいかない対人関係は重要人物との葛藤の再現でもある。従ってその状況を乗り越えていくことは重要人物との葛藤の問題を考えていくことに等しい。
 具体的に現実のハードルをどうやって乗り切るのか?どうしていいか分からないときに行動を起こすことができるのか?そんなときまわりからいくつかの選択肢が提示されていると思うので、まずはその選択肢の中からどれかを選び自己責任のもとに徐々にやってみるしかない。そしてまた考える。その繰り返しで少しずつ前進するのではないかと思う。

Vol.25 飛行機(パート1)

 上の写真は本年6月に飛行機の中から私が撮ったもの。空の上から写真を撮るのはこれが初めてだ。私は飛行機は好きではないので外を見るということは余りなかった。さらに写真を撮るということはとんでもないことだった。しかし飛行機に度々乗り出して約7年になり、ずいぶん飛行機に慣れてきたということだろう。
 やはり疲れたり睡眠不足のときなどは神経がピリピリして機内でも調子が良くないので、時間に余裕をもって空港に出掛けるという工夫もやった。たまに飛行機が木の葉のように揺れたことがあったが、その最中に逆に気持ちが落ち着くという不思議な体験をした。怖さも極限に達すると後は『なるようになれ』と開き直れるものらしい。
 今回は教育分析を受けるために頻繁に飛行機に乗った訳だが、そういうように何かやろうという動機付けがあることも必要のようだ。後は何度も繰り返したことも大事だ。一般的に何度も繰り返せば慣れてくる。
 ところで我々は怖い夢を繰り返し見ることがある。怖いなら見なければよさそうなものだが、実際には繰り返し見てしまう。それは怖いものに慣れていくという心のメカニズムが存在するからのようだ。これは反復強迫というものだ。苦手なことに少しずつ慣れていくという治療法もあるくらいなので、とにかく苦手なものに徐々にチャレンジしていけば何とかなるという可能性は残されているようだ。

Vol.26 飛行機(パート2)

 上の富士山の写真も私が飛行機の中から撮ったもの。ところで何故飛行機に乗るのが怖いのだろうか?飛行機嫌いの私は実際に飛行機に乗りながら自分なりに考えてきた。一般的に実際に乗ったときに怖い体験をしたから怖くなると言われるが、分析的に言えば次のようになるだろうか。
 自分の心の中に何か怖いものが存在しているのだが、その怖いものをそのまま自分の中に置いておきたくないので何とか外に吐き出したい。その一つの方法として外の何かに投影して自分から出そうする。その投影の一つが飛行機ということなるのだろう。しかし今度はその飛行機が怖いものになって自分を襲ってくるように感じることになる。ところが怖いものに襲われそうになっても空の上を飛んでいる飛行機の中に閉じ込められていれば逃げ出しようがない。そのために死んでしまいそうな恐怖感に襲われることになる。
 以上の事は飛行機などの乗り物恐怖だけでなく多くの恐怖症に共通して言えることだと考えている。その恐怖感と言えば例えばクマなどの恐ろしい動物に襲われたときの心境にも匹敵するのではないかと思う。逃れようのない恐怖感。そんなとき我々は何を欲するだろうか?やはり自分を守ってくれるディフェンダーのようなものだろう。
 私自身飛行機の中で不安な気持ちでいるとき客室乗務員を見ていると気持ちが落ち着いてくる気がする。その表情に現れた『大丈夫ですよ』という様子がディフェンダーのように見えてくるのかもしれない。さらに言えば今後我々に望まれることは外にディフェンダーを求めること以外に自己のうちに十分なディフェンダーを自ら作りだすことになるだろう。

Vol.27 自己形成(パート1)

 人の主体的な生き方を問い掛けたのがフランスの実存主義哲学者サルトル(1905~1980)だ。私の理解している範囲内でサルトルについて書いてみたいと思う。サルトルの著書に『実存主義とは何か』があって、実存主義について比較的分かりやすく書かれている。
 サルトルは「実存は本質に先立つ」と言う。従って人というのは生まれたときは何者でもないので自分で自分をつくりあげていかねばならないと言う。一方「実存は本質に先立つ」ではなく「本質が実存に先立つ」という場合はどうなるか?サルトルはペーパーナイフを例にして説明している。ペーパーナイフは最初から紙を切るために作られている。つまり何に使うかという目的が最初になければペーパーナイフは作られることはない。従って紙を切るためという本質がペーパーナイフという道具より先立っている。
 今でこそ「自分自身で自分をつくる」という考え方は当たり前のように思われる。が、そういう実存主義の考え方が出現するまでは「本質が実存に先立つ」という考え方が主流だった。つまり人は何か目的を持って生まれるというような考え方が一般的だったので、そんな時に全く逆の考え方が登場したことで大論争が巻き起こった。
 サルトルによれば人間も偶然この地球上に現れただけに過ぎないと言う。しかし人間が他の存在物と違うのは人間は自らの力で自分をつくっていく唯一の存在であるということだ。そこに人間としての尊厳がある。
 人がただの存在から自己形成していくためには実際に社会の中に身を投じて行動していく以外にない。さらに自分をつくるのに人間世界の他者を必要とする。
 人が主体として存在するのと同じように他者も自由な主体的存在として目の前に現れる。そして他者は同調したり反対したりする。すなわち褒め言葉もあるだろうが悪口や厳しい言葉であったりする。しかし他者がそう言ってくれなければ人は何者でもあり得ない。その中で人は例えば自分なりの道徳や掟を創りあげていく。すなわち自分以外に“立法者”はいない。
 サルトルは「実存主義はヒューマニズムである」と言う。人は外の人間世界の中で他者を通じて自己形成を果たしていく存在である。しかも自己責任のもとに乗り越えていかなければならない。

Vol.28 自己形成(パート2)

 私がサルトルの実存主義に共感したのは20才前後の頃だった。多くの若者にとって哲学は来るべき将来に向けての生き方の指針となるのだと思う。その中でも自分で自分をつくるという実存主義的な考え方は前向きで積極的だ。
 その後医療の現場に関わるようになってから私は過去を振り返ることを思い出したような気がする。「何が病気の原因なのか?」ということを考えるうちに必然的に過去にさかのぼることを迫られた。そして『病気になるということは一度立ち止まってこれまでを振り返るという意味がある』と考えるようになった。
 精神分析では過去の重要人物との葛藤が病気の原因であると考えられる。その過去の葛藤が現在の人間関係上に再現され、今の対人関係が良くなったり悪くなったりする。そうであれば「人が行動する前にもうどうなるかは決定されているようなものだ」と言われても不思議ではない。「決定論は存在しない。人間は自由だ」と精神分析を批判したのがサルトルだ。実存主義の考え方では人は最初は何者でもなく何者にも支配されていないのだから。
 ところで私の場合は実存主義も精神分析も特に矛盾することなく私の中に存在している。実存主義は生き方の基本の一つとして、精神分析は治療法の一つとして私の中に存在するように思う。しかし両者は別々のもののようだが私にとっは両方とも自分で自分をつくっていくもののように思われる。
 どうして精神分析に自己形成の面があると私には考えられるか?人は心のどこかで過去の問題に捕われているために自分の思い通りに動けないことはある。みんながみんな主体的に生きていける訳ではない。そのために苦悩して病気になることだってある。ならば病気になった時点でその問題点に気づいてその解決を目指せばよい。それが治療目標となって病気からも回復していく過程で再度主体性を学び直すことになる。その後に社会に出て主体的に行動して自己形成していくことになる。

Vol.29 自己形成(パート3)

  自分で自分をつくるとはどういうことか?実存主義の哲学者サルトルは「自分の中に道徳や掟をつくることだ」と言う。しかし一般的に道徳や掟というのは家庭教育や学校教育によってすでに出来上がっているはずだ。従ってサルトルの言っているのは、すでにできあがったものを指しているのではなく、さらに新たに独自の道徳や掟をつくるという意味だろう。その年齢はいつ頃だろうか?それらは意識してつくるものだから『人生いかに生きるべきか』などと考え出す年頃だ。すなわち早熟の人で中学生の頃、大体は高校生か大学生に相当する年齢ではないかと思う。
 自分の中に掟をつくることが自己形成であれば、精神分析的に言えば3~4才の頃にすでに掟は形成され始めている。つまり親との葛藤の中で「~してはならない」とか「~すべきだ」という超自我の形成だ。それは無意識のうちに出来上がるものだが、超自我が強すぎれば自己抑圧的になったり理想的過ぎる人になってしまう。
 自己抑圧的であれば例えば心身症などの病気になることもある。言いたい事を言わなければストレスがたまって体に変調を起こすからだ。したがって治療に際し治療者側は「自己主張しよう」と提案する。現実に集団主張訓練という治療法もある。ところが「自己主張すれば相手と衝突するのではないですか?」という疑問が返ってくることがある。良い質問だ。確かにお互いに自分の意見を主張すれば衝突することになる。
 そんなとき私は「やはり衝突覚悟で自分の意見を言っていくしかない。違う意見を闘わせることによって一段高い段階に達する」などと私は答えるのだが、それに付け加えて「言うのは簡単だけど実行は難しい』と言い足しているのが現状だ。『一段高い段階に達する』などということに至っては理想的過ぎて実現は至難の技だ。第一そう言っている私自身ができているかどうか怪しいのだから。
 しかし確かに言えることは『衝突することが大事だ』ということだ。“衝突する”ということは“闘う”ことを意味する。闘うという体験自体に意味がある。その体験を重ねて闘う力を身に付けることだ。その力がなければ人間社会を生きていくのは困難だ。そして「衝突したらどうするか」は衝突して何かが起こった時点でまた考えることになる。そうすることによって自己を再形成していけるのではないかと思う。

Vol.30 自己形成(パート4)

 人間関係の中で闘うためには自己を知り相手を知る必要がある。自分に闘う力はあるのか?闘う準備はできているか?どうして闘えないのか?そんな疑問に精神分析が一つの答えを与えてくれる。それがあの有名な“エディプスの葛藤”だ。子供の頃の親との葛藤は子供の中に超自我をつくると同時に、子供が“闘う”体験をする機会でもある。一般的に反抗期と言うが、その段階をちゃんと踏んでいなければ闘う力が不足していることになる。
 とにかく人間関係上にはもめ事が多い。しかしもめ事はイヤだと避けてばかりもいられない。もめ事が起こったときやうまくいかないときに宝物がある。どこかで聞いたようなセリフではあるが、確かにその言葉には一理ある。もめ事から何か学ぼうとする前向きな姿勢がよい。
 まずは自分の内面に目を向ける。そうすれば自分に起こっている感情や情動を見つめるチャンスとなる。その感情は一体どこから生じているのか?その一つとして転移現象が考えられる。過去の重要な人物との葛藤が現在の人間関係に転じて移ってくるのでややこしい。つまりこちらが相手に怒りを覚えたときは、それは本来は過去の誰かに対する感情である可能性がある。
 あるいは、自分に起こった怒りの感情が実は相手の感情である可能性がある。すなわち相手の感情が投影されているかも知れないからだ。また相手が悪者に見えたときもすぐに反応して攻撃しないでちょっと考えてみたい。それは自分の悪いところを投影した結果それが相手のものであると思い込み、相手が悪者に見えているのかもしれない。そういうように自分に起こった不快な感情をも相手を知る情報源としていく。そのとき十分に考える余裕が必要だ。そんな力を身に付けることも自己再形成となるのだと思う。

Vol.31 自己形成(パート5)

 世の中はストレス社会である。我々医療者側から見てもストレスの多くが人間関係である。そして人間関係は一種の闘いだから闘う力をつけたい。また闘う自分や相手を知る力をつけたい。さらにもめ事の原因となる様々の情動を知りたい。以上のことを前回まで考えてきたが、あと残っているのが相手を思いやる力だろうか。
 相手を思いやる気持と言えば、それが出現するのはメラニー・クラインによると、子供が6ヶ月から2才の間で体験する抑うつポジションのときである(Vol.23)。すなわち赤ん坊は自分の想い通りに対応してくれなかったと感じてまわりを攻撃する。しかしその攻撃の相手が自分の母親であったことが分かって絶望感や非哀感などが生じて抑うつ的になる。そして相手に済まなかった償いたいという気持ちが生じると言う。
 確かに以上のような体験を大人もするものだ。つまり誰かを攻撃してしまって後で「済まなかった」という気持ちになる。そのときは確かに気分が沈むものだ。そのように人が「済まなかった」という気持ちになるのは普通のことのように思われるが、先の抑うつポジションでの子供は大変な苦痛を感じている。何とかその苦痛に耐えることによって成長した自分をつくることになる。一方、その苦悩を避けてばかりいれば、相手を思いやることを忘れて相手を責めることの多い大人になるだろう。
 世の中では攻撃したり攻撃されたりということは日常茶飯事に起こっている。問題は自分が相手を攻撃したときどのくらい「済まなかった」という気持ちが自分に起こっているかだ。それが人を思いやる自己の形成ができているかどうかの指標となる。
 言ってみれば世の中も人間関係も闘いの場ではあるが、いわゆる戦争のような闘いではなく、お互いに一段高い段階を目指すような有益な闘いでありたい。

Vol.32 自己形成(パート6)

 包容力があると言えば心の大きな人というイメージがある。それほど懐の深い人物になる必要はないと思うが我々が身につけたい力の一つだ。それでは我々は抱える力をどうやって身につけるのだろうか?子供の頃からを振り返ってみると、十分にまわりに抱えてもらうことによって抱える力が得られると言われる。
 その逆に抱えられる体験がなければ抱える余裕がない。つまり自分の中にイヤなものを留め置くスペースが形成されていないのですぐに吐き出そうとする。だからまわりに悪態をついたり攻撃したりする。そうすることによって彼らは自分が楽になろうとしている。
 逆に攻撃された側は彼らが吐き出したイヤなものを押し込まれるのだから不快な感情が起こる。すぐにまた不快な気分を吐き出そうとして反撃したくなるのだが、そのとき自分に起こった感情をじっくり見つめる必要がある。その感情が怒りであれば、それは抱えてくれなかった大人に対する子供自身の怒りである。そんなふうに攻撃的な子供を理解できれば、我々は彼らの攻撃を抱えられるし『理解している』という思いを彼らの心に返してやれる。
 こうして抱えてもらわなかった子供は抱えられる体験をする。そして抱えられる力を獲得して包容力のある大人になる。しかし現時点でもし我々に十分抱える力がないならば、日常生活状のイヤなことを抱えることに疲れ果てることだろう。それはストレスとなって重くのしかかる。従ってやはり我々も子供と同じような抱えてもらうという体験が必要となる。

Vol.33 振り返ること

 私は音楽が好きでいろんなジャンルの曲を聴く。フォークソングの『風』もその一つだ。この曲は精神分析の北山修先生が作詞された。その歌詞の中に「・・・人はだれも人生につまづいて、人はだれも夢破れ振り返る・・・」という一節がある。人は人生でうまくいかなかったときにふるさとを振り返ったり、これまでの自分の人生を振り返ったりするものだ。それが人の自然な気持ちなのだろう。そう私は自分なりに解釈している。
 また人生うまくいかないときに病気になることもある。そんなとき人はどうなるだろうか?多くの人たちが後ろ向きになるものだと思う。そして振り返ろうとしている。それが私が医療現場で感じることだ。何を振り返ろうとしているのだろうか?心のどこかに引っ掛かっている何か。そして私たち治療者側は一緒に過去を振り返ろうとする。十分振り返ってまた未来に向かって生きて行こうとする力が湧いてくるのを信じて。
 一方『自分で自分をつくる』という考え方は前向きであり、それもまた私自身のポリシーの一つだ。また私が関わった心身症的なアプローチもおおむねそのような方針だったと思う。すなわち『自分の病気は自分で治す』ということを目指している。つまり本人が自己主張したり気持ちを出すことに取り組む。そこには本人の主体性や積極性が求められる。
 しかし本人が後ろ向きになっているときに急に前向きになることを求めるのは早すぎるのではないかと思う。十分に振り返って足元がぐらつかないようにしていく必要がある。まずは何が引っ掛かって前に進めないでいるか見つめることから始めたい。

Vol.34 目鼻立ちがない(パート1)

 “目鼻立ちがない”とは一個の人間として存在しないということだ。まわりの大人たちに顧みられなかった子供というのは目鼻立ちがなくなると言う。彼らは大人の懐からポロリとすべり落ちてまるで“落とし物”のようになっている。“物”のように存在するだけで“一個の人間”として存在していない。
 「“一個の人間”でなければ自分でつくろう」と言う人がいるかもしれないが、目鼻立ちのない子供たちがこの状況で『自分で自分をつくる』ことは不可能に近い。子供たちはほとんど受け身の存在であり、改めて誰かに“のっぺらぼう”な顔に目や口や鼻をつけてもらう必要がある。それ以外に“一個の人間”になるのは困難だ。
 目鼻立ちがつくのはどうやって可能か?それはまわりの人たちが「~さん」と彼らの名前を呼んであげることだ。その結果、子供たちは自分の存在を確認することができるようになり“一個の人間”としての顔を持ち始める。
 ところで子供が“一個の人間”になれなかったのはまわりの大人たちに問題があったからだが、その点はどう解決されるのだろうか?大人たちというのはとりわけ親ということになるが、現実には親の存在は微妙である。医療の現場では誰かの責任が問いつめられるようなことはあるべきでなく、あくまでも治療者側と本人との関係が重視される。一方で子供の問題を自分の問題として捉えていこうとされる方もおられるので、その時は一緒に考えていくように私自身はしている。

Vol.35 目鼻立ちがない(パート2)

 書『被虐待児の精神分析的心理療法』(金剛出版)は私が教育分析で出会った書物である。この書はイギリスの某施設のおける被虐待児と治療スタッフとの関わりの記録である。被虐待児というのは情緒的に迫害された子供のこと。彼らはまわりの大人に一個の人間として認められてこなかったために目鼻立ちがなく誰が誰だか分からない。
 精神分析では子供と親との関係が基本に論じられるが、実際に親が精神分析的心理療法の場面に登場することはなく、あくまでも心理療法家などのスタッフと子供との関係が重視される。スタッフは子供たちの攻撃性に遭いながらも根気強く関わり続ける。そうすることによってスタッフと子供の関係が形成されていく。そして子供たちは目鼻立ちが整ってきて自分の顔を持ち始める。
 この書の中で施設のスタッフは子供に対してどう接しているのか?それを見ていくと大人のあり方が次のように見えてくる。
 ①大人は不快な感情をすぐに吐き出さない。それをすれば攻撃的な子供と同じことを繰り返すことになる。
 ②大人自身に起こる怒りなどの感情は子供の感情でもありうることを理解する。
 ③大人は子供が安心して話せる人と場所を提供する。
 以上は子供に対する大人のあり方ですが、日常生活の対人関係における我々のあり方でもあります。つまり言い換えると次の通り。
 ⓐ我々は不快な感情をすぐに吐き出してはならない。すぐに吐き出せば攻撃的な人と同じことを繰り返すことになる。
 ⓑ我々に起こる感情は相手の感情でもありうることを理解する。例えば自分に対する怒りにじっと耐えていると、それが相手の怒りでもあることに気づく。
 ⓒ我々は相手が安心して話せる雰囲気をつくりたい。
 以上の通りですが、②とⓑは余りピンとこないかもしれません。おそらく治療者レベルのことでしょうが、自分に何か感情が動いたときはちょっと思い出してみるとよいかもしれません。

Vol.36 目鼻立ちがない(パート3)

 書『被虐待児の精神分析的心理療法』の中で印象的なのは大人(施設のスタッフ)と子供(被虐待児)との間で起こる闘いだ。大人は自分に起こる苦悩と闘い、子供たちも自己の苦痛と闘う。両者が同時に闘うことによって子供は“被虐待児”からの脱出を図っていく。すなわち子供は目鼻立ちのない存在から実存の方向に進み始める。
 さて“被虐待児”とは「情緒的に剥奪された」という意味で、「子供の感情を受けとめてそれについて一緒に考えるくれる大人がいなかった」ということだ。そういう大人は子供の心の中で“迫害者”や“虐待者”となって存在する。そして何かのきっかけで今度は子供自身がその“悪者”に乗り移って無意識のうちに他の大人を攻撃することになる。
 このとき大人の技量が問われる。大人が子供の怒りを受けとめれるか?それとも逆切れしてしまうか?この逆切れは子供の怒りに大人が怒りで返したということだ。つまり大人が自分の苦痛を怒りに転換して感情的になったということだ。これは大人は子供と同じように怒っているだけで子供の心情を捉えていない。
 私たちは子供の心の傷を直接見ることはできない。全ては私たち自身の情緒を知覚する能力にかかっている。子供はまわりの人々を傷つけることによって間接的に自分の苦痛を伝えようとしている。そのとき大人は自分に起こった苦痛が子供から伝わってきた苦痛でもあることに気づく能力を求めらる。
 私たちは受容力と忍耐強さをもって子供の苦しみを抱える必要がある。それは子供が誰かと信頼関係を体験することになる。そして子供は心の中に“守ってくれる者”や“信じられる対象”を内在化していき、再び恐怖や不安を感じたときに耐えられるようになる。
 私自身が臨床の場で感じることは、多くの大人たちが「困っているのは自分たちだ」というように被害者の立場に居ることだ。何とかして大人たちが「本当に困っているのは子供たちだ」ということに気づくことが重要だ。そう気づくことによって大人は子供と共に闘っていく原動力を得ることができる。

Vol.37 政権交代

 今回8/30の総選挙で政権交代が実現した。別段政治に精通している訳ではない私にも『政治の世界も選挙民も変わってきた』と思えた。特に私が興味深いのはこれまでの官僚主導ではなく政治家主導でいくという新政権の方針だ。何かウラの力によって動かされるれるのではなく何事につけても政治家自身の言葉で語り主体性を持って行動するというのはやはり新しい考え方だ。私自身『時代が変わってきた。成熟してきた』と思わざるを得ない。
 ところで後期高齢者制度が問題となっているが、それに対する怒りの声はニュースなどの報道で見る通りだ。厳しい懐事情のところにまた支出を強いられることはさらに不安をあおられることになる。そういう不安を私自身医療の現場にいて身近に感じる。今後はマニフェスト通り廃止されることだろう。
 また新厚生労働大臣が初めて同省に赴いたときの様子が印象的だった。同省側からの歓迎の拍手はなく緊張感がただよっていた。この姿がこれからの新政権と各省との関係を象徴している。また新大臣は挨拶で「これまでの膿みを出さなければならない」ということを明言した。そのときの大臣の毅然とした態度の背後には多くの人々の期待がかかっている責任の重さが感じられた。
 これから“闘い”の予感がする。新政権が各省とどう闘っていくか。逆に各省が新政権とどう闘っていくか。すなわち“闘い”ではあるけれども相手を負かすような“闘い”ではなく、その結果一段高い段階に達する“闘い”であることが期待される。何故ならそのことがわれわれ国民にとって有益になるのだから。今回私自身『政治が面白くなってきた』とあらためて感じ、今後の“闘い”の成り行きを注目している。

Vol.38 極限状態(パート1)

 私が中学生の頃には『夜と霧』が我が家の本棚にあったように記憶している。しかし当時はその写真を見るくらいで実際に読んだ記憶はない。その後私がこの本をしっかり読んだという確かな記憶は私がドクターとして心身症に関わり出してからである。
 『夜と霧』という有名な題名は日本で出版される時に付けられたものだと言う。もともとの原題をそのまま訳すれば「強制収容所における一心理学者の体験」となるべきところである。この強制収容所というのは第二次世界大戦のときのアウシュビッツ強制収容所のことだ。一心理学者というのが著者のフランクル自身のことである。実際に著者自身が収容された体験がもとになっている。 
 『夜と霧』の中で強制収容所に長期に入れられた人々が感情をなくしていく姿が描かれている。フランクルによればそれは自己防衛の結果である。つまり強制収容所で味わう苦痛を乗り越えるために苦痛を苦痛と感じないように感情を無くしていくということである。
 一方、心身症の特徴にアレシシミア(失感情症)というのがある。つまり現代社会に生きる人たちも感情表現に乏しくなっている。やはり無意識のうちにイヤな感情を体験しないようにしていると考えられる。そういうことで私はアレキシシミアから強制収容所のことを連想し『夜と霧』をしっかり読み返そうと思ったのだろう。しかし今の世の中に強制収容所のような過酷な環境が存在するとは思えない。考えられることは本人にとってまわりの環境がまるで強制収容所に居るかのように感じられているということである。
 従ってこのストレスフルな現代の環境をどう乗り切るかが心身症の人たちの課題となる訳だが、それだけでなく多くの現代人にとっての課題でもあるような気がする。そして60年以上も前のフランクル自身による強制収容所の体験が、この現代の過酷な状況に向き合って行く指針をわれわれに示唆してくれるのではないかと思う。

Vol.39 極限状態(パート2)

 アウシュビッツ強制収容所とは一体どんなところだったのか?フランクル著『夜と霧』によると、粗末なバラック作りの住居、ごくわずかの食事、劣悪な衛生状況という最悪のもだった。さらに過酷な強制労働が待ち受けており働けなくなればガス室行きになる。そういう極限状態でもなお人が“一個の人間”たり得たのは何故だろうか?
 彼らを救った考え方はただ一つ。それは苦悩し抜くことだった。つまり苦悩を自らの運命として引き受けたということだ。その苦悩の結果、彼らは人間的に高められ、精神的自由と人間の尊厳を得ることができた。さらにそれは彼らの一つの業績となった。
 人はあらゆるところで自己の運命と対決することを求められていて、いつでも自らの苦悩を引き受けるかどうかの決断に迫られている。例えばフランクルは医師の立場から治療の見込みのない人の運命について考えている。その人は品位を保ちながら死に向き合う。苦痛を味わされた病気を恨むことはなく逆に病気に感謝する。何故ならそれまでの苦労のないブルジョワ的生活を反省できたし、初めて真剣に自己の内的世界に迫ることができたから。
 ところで我々の現代の社会についてはどうだろうか?強制収容所とは比べものにならないかもしれないが、我々もまた自らの苦悩の場面に直面し、それを引き受けるかどうかの決断をしないといけない場面に遭遇する。多くの場合苦痛を避けたがる傾向にあるが、著者自身の強制収容所体験から我々が学ぶべきことは「何としても苦悩に向き合う」ことだ。そうすることによって我々は内的自由と自己実現を得ることができる。

Vol.40 極限状態(パート3)

 我々にとって未来に何か目標が見えないと不安になるものだが、『夜と霧』のアウシュビッツ強制収容所の囚人にとって最も苦痛だったのはいつまで収容所の中にいないといけないかが分からなかったことだ。将来に希望を持てない人々はやがて“一個の人間”としての尊厳を保てなくなった。
 しかしこのように望みのない人々に対しても心理療法や精神衛生上の関わりは効果をあげることができた。囚人の一人であるフランクル自身も精神科医の立場から人々に未来の目的に目を向けさせることに成功した。フランクルは人生に対する考え方の転換が必要だと言う。すなわち「人生に何かを期待する」のではなく、逆に「人生から何を自分が期待されているかを考えるべきだ」と説く。
 「人生から期待されている」とは、例えば「自分を待っている仕事がある」とか「誰かが自分を待ってくれている」ということを意識することである。それが未来に目的を持つということであり、そのことに気づいた人たちは過酷な状況から生きて帰ろうという意志が生じた。フランクル自身は目的を失った人々に生きる意欲を起こさせることを期待されていた。それ故にフランクルは疲労していてもイライラしていても皆を勇気づけるための話をしないではおられなかった。
 一方、収容所で「解放されることを期待した」ために人々が滅んでしまう出来事があった。それはクリスマスと新年の間に起こった。クリスマスには家に帰れるだろうと期待したのだが、その期待通りにならなかったために絶望し精神的にも身体的にも崩壊した。何の保証もないことを期待したために起こった結果である。
 一般的な日常の生活においても我々は人生に問い掛けられている。我々は何を期待されているのだろうか?例えば我々が人生を掛けて何かに取り組もうとするときなどには、我々は自分が人生に期待されたことをやろうとしているのだろうと思う。