随筆〜その4

Vol.61 物理学者で随筆家

 世界的に特に有名な物理学者はアインシュタインだが、私にとって印象深い日本人の物理学者は寺田寅彦だ。寺田寅彦は夏目漱石の弟子でもあり、漱石の小説『三四郎』に物理学者“野々宮”先生のモデルとなって登場する。寅彦は純粋に科学の研究に打ち込む学者である一方で、人の悪口を言わず思いやりのある人物でもあったと言う。そういう高邁な人格ゆえに寅彦は漱石から尊敬の念や親愛感を持たれていたようだ。また寅彦は多くの随筆を残している。私自身大学入試の国語の読解力を試す問題集か何かでその随筆を読んだ記憶があり、私にとっては物理学者というよりはむしろ“随筆家”寺田寅彦のイメージが強い。
 ところで寅彦の人物像を物語るエピソードがある。「悪人と思われるような人も含めてどんな人間にも必ず一つくらいは良い所があるのだから、悪い所ばかりをけなしたり嫌がってはいけない」と寅彦は家人にいつも口にしたと言う。そして家に出入りする者や女中たちを変えることを嫌がったと言う。そんな寅彦のエピソードが私の記憶に印象強く残っている。
 さて小説『三四郎』が書かれた頃の日本社会は急速に近代化しており、多くの人々はこれからどう生きたらよいか迷っていた時代だ。その状況は現代に似ていると言われる。すなわち現代の多くの人たちがストレスにさらされ疲れ果てている。当時の漱石自身も葛藤の中で神経衰弱の傾向にあり身体的には胃潰瘍ができて吐血している。今も昔も葛藤状態がストレスになって心身に病状をきたすことに変わりはない。
 一方寅彦は特に人間の良いところを中心に見ようとする傾向にあり、そういう意味では心の葛藤を回避していると言えなくもない。さらには学問に没頭する寅彦の姿は「学問に逃げている」と揶揄されることもあったようだ。しかし漱石自身は寅彦を尊敬していたことは確かであり、それはやはり寅彦に“人格者”の雰囲気がただよっていたからに他ならないと思われる。

Vol.62 科学教育

 学校で物理というのは誰からも毛嫌いされる教科ではないかと思う。それは全く現実生活とは掛け離れたものだからであるが、一方で学校での教え方にも問題があるのではないかと思う。あの漱石の弟子である寺田寅彦が明治の頃から次のように語っている。『科学教育というのはただ暗記させるのではなくて自然の不思議さに触れさせることが大切である』と。
 私自身の体験では物理の授業というのは私には“机上の空論”のように感じられた。すなわち暗記主義で実体験に乏しかったと記憶している。そういうこともあってか授業中の内容は私の頭の中には余り残らなかった。それでも私自身は大学でまた物理を勉強することになったのだから人生とは分からないものだと思う。
 さすがに大学の物理学科に入れば講義だけでなく実験をする機会も増えてくる。そうすれば自然の法則に身をもって触れる機会が増えた。特に卒論のときは楽しくさえあった。実験テーマは教授に与えられたものだったが、後は2人一組で試行錯誤しながら実験に取り組むことができた。実験室に泊まり込むこともあった。そして何とか結果を出したときペーパーテストでは得られない達成感があった。何か自分たちの自信になった気がする。
 参考までに当時我々が取り組んだ卒論とは次のような実験だった。塩の結晶の塊に穴を開けて金属ナトリウムを詰め込む。それを電気炉で高温にしばらく熱したあと外に取り出す。急に冷えると金属ナトリウムが塩結晶の中に拡散して色がつく。そんな地味で泥臭い実験を毎日毎日繰り返していた。それが何の役に立つのかと言われてもそれは分からない。
 しかしその卒論実験が楽しかったのは事実だ。というのは試行錯誤しながらも自分たちで主体的にやれたことが大きい。また曲がりなりにも寺田寅彦が言うところの『自然の不思議さに触れる』体験をすることができたからだろうと思う。ところで最近テレビで元高校の先生が理科の実験を興味深くやられているのを観る機会がある。これで多くの人たちが『自然の不思議さに触れる』体験をしているようだが、そんなことをテレビだけでなく学校でもぜひやってもらいたいと思う。

Vol.63 テレビドラマ(パート1)

 現在、職場のいじめについて扱ったテレビ番組『泣かないと決めた日』が放送されている。会社に入ったばかりの主人公の新人OLが次から次にいじめを受ける。これほどまで執拗にいじめが行われるのはドラマ上のことであるにしても何故いじめというものが起こるのか?
 ドラマの中でいじめの理由として「スキがあるからつけ込まれる。誰でもよかった」ということが語られる。それは本人には何の非もなくても理不尽なことは起こる。それが人間社会の現実であるということを意味している。ならばそれにどう立ち向かった行ったらよいのか?
 やがてドラマの主人公は“自己主張”を始める。このとき支えになるのが少数でもいいので本人のことをよく見ていてくれる人の存在だ。このドラマにもそんな人物が登場して必要なときに的確な言葉を主人公に掛ける。
 それは大体次のような言葉だ。「生き残りたいなら強くなるしかない。自分でやるべきことを自分で見つける」「やるべきことをやり続けていると見えてくる」「一生懸命やっていれば誰かが見ていてくれる」など、このドラマを観ている人たちの心にも響いてくるような言葉だ。
 ところで「スキがあるからつけ込まれる」というのがいじめの理由の一つだが、そんなようにつけ込む人間の心の中とはどんなものなのだろうか?つけ込まれた側に不快感が生じるのであれば、つけ込んだ側に逆に快感が生じると考えるのが普通だ。それは心の中の満たされない部分をいじめの快感で埋めようとしているかのようだ。このドラマの中でそんな加害者側の心の状態が描写されるかどうかが気になるところだ。
 さてドラマの主人公は『自分らしくあり続けることによって人生上の宝物を手に入れることができる』と信じながらストレスフルな毎日の出来事に立ち向かっている。

Vol.64 テレビドラマ(パート2)

 テレビドラマ『泣かないと決めた日』が先週終了した。私の関心事は『主人公の新人OLが“いじめ”にどう対処して行くか?』ということだった。
 ドラマが終わってそれをまとめると次のようなことだった。とにかく諦めないこと。自分の考えを言うこと。自分のやるべきことや自分しかやれないことを見つけること。それを粘り強くやり続けること。そうすれば何かが見えてくる。まわりの誰かが見ていてくれてサポートしてくれるようになる。しかし気をつけないといけないのは一人で頑張り過ぎないこと。
 以上のように主人公が取り組んだ内容は本人が自ら気づいたというよりは上司の適切なアドバイスだった。その上司は主人公のことをちゃんと見ていてその言葉は主人公のこころによく響いていた。だからこそ主人公に実行しようという意欲が湧いたのだろう。
 ところで「自分の意見を言う。自分を素直に表現する」というのはドラマの中でも大きなポイントだったが心身症の現場でもよく耳にする言葉だ。すなわち治療上の基本にもなっているのでドラマの成り行きも『こういう事もあり得る』と観れたように思う。
 これほどまでに“いじめ”が徹底的に行われる場所はないにしても、多少の“いじめ”か“いじわる”はどこにでも存在するように感じる。しかしそれに何とか対処して乗り越えていくことは可能であり、その一つの例を今回のドラマが与えてくれていたように思う。
 特に強調したいのは主人公が“いじめと闘った”ことだ。そのためには自分の意見を言わないといけないのだが、一般的に「自分の言いたい事を言ったらケンカになるのではないか」という不安が多い。しかしそこを打ち破らないと前に進めないのであり、当初はケンカのようになるのも仕方がないにしても、そのうちにだんだん闘い上手になって何か意味のあるものをつかむであろうことを期待したい。
 最終的にこのドラマの主人公は「ダメと思ったときに見守ってくれた人がいた。諦めなければ変われる。今までと今とこれからやり続けたら見えてくる」と語った。何とか一山越えた本人の実感だ。

Vol.65 テレビドラマ(パート3)

 最近のテレビドラマ『泣かないと決めた日』は“いじめ”がテーマであり、その“いじめ”の理由は「スキがあるからつけ込まれる。誰でもよかった」というものだった。なぜ人は相手にスキがあるとつけ込むのか?
 一般的に“いじめ”は悪であるに違いないので“いじめ”をする人間は悪者ということになる。そういう人間の心の闇を考えるとき私が思い出すのは夏目漱石の『こころ』だ。この小説の中で私に印象深いのは先生が「悪い人間という一種の人間がいる訳ではない。普段はみんな善人なのだが、いざというときに急に悪人になってしまう‼」と怒りに満ちて語る場面だ。
 『こころ』はずいぶん前にテレビドラマ化され放送されたことがあった。それを録画して持っているので時々引っ張り出して観る。このように映像化されると物語の場面場面がさらにいっそう印象強く記憶に残るようだ。先生が人間の本性について「いざというときに善人が急に悪人になる」と語る場面がそうだ。このテレビドラマ化では先生役を“イッセー尾形”、親友K役を“平田満”、主人公の大学生役を“別所哲也”が演じている。
 ところで先生が「善人が急に悪人になる」と怒るのにはそれなりの理由がある。先生が両親を亡くしたとき管理を任せた叔父に財産を横取りされた苦い体験があった。また先生を最も苦しめたのは学生の頃に抜け駆けして下宿先の娘さんと婚約を進めて親友Kを自殺に追い込んでしまった過去だった。すなわち先生の怒りは叔父に対する怒りであり、同時に自分自身に対する怒りでもある。信じられないのは人ばかりでなく自分自身でもあった。
 先生が言っているのは「人の心の中に善人と悪人の両方が存在する」ということだ。その悪人の部分が突然出てきて例えば人を裏切ったり“いじめ”たりする。すべては己の利益や快楽のためのものであり人間のエゴによるものだ。
 その人間のエゴのために先生はずっと悩まされて生きて来た。そして結局、先生がこの世からいなくなることによってその問題は主人公の大学生に託されることになる。

Vol.66 テレビドラマ(パート4)

 さてドラマ『泣かないと決めた日』についてもう少し。最終的に主人公はイジメとよく闘い抜いた。この闘いの物語によってイジメを乗り越える一つの指針が示されたように思う。ところで、一方のイジメを行った当人たちもイジメを止めて行った。それは何故だったのか?その理由も気になるところだ。その点について私なりに考えてみることにした。
 もともとイジメとは何か?ただ相手を攻撃するだけの意地の悪い人間なのか?何かそうしてしまう訳でもあるのだろうか?そんな疑問も湧いてくるので、まずは“いじめっ子”の心の中をのぞいて見たい。そこに何が見えてくるかと言えば、何やらイヤなもの・不快なものが渦巻いているようだ。それらを抱えていることは苦痛に違いない。ならばその不快なものを外に出して楽になりたい。その方法として誰かの中に投げ入れるということが行われる。それがイジメというものなのだろう。
 しかしそんな不快なものを投げ込まれたらたまったものではない。誰でも不快になるだろうし精神的に参ってしまうこともある。このドラマの主人公は自分の存在が危うくなるほどだった。しかし考えてみれば自己の存在が危ういほど参っていたのは“いじめっ子”自身にも言えるのではないだろうか。だからこそ“いじめっ子”はイジメまでして快感を得ようとしたのだ。まさにそれは自己防衛である。
 ところがそんなイジメに耐えて乗り越えて行こうとする人間が現れた。それがこのドラマの主人公であり、イジメと闘った主人公は人間的な強さを獲得した。その心の中を見れば主人公は“不快感”という“悪いもの”を“人間的な強さ”という“善いもの”に変えたとも言える。それは尊敬すべき姿であるので人の心に響かない訳がない。それが“いじめっ子”を改心させるきっかけになったのではないだろうか。さらに言えば“いじめっ子”自身も本当はそんな尊いものを求めていたのかもしれない。何故かと言えば“いじめっ子”の中にも“善いもの”を育てたいという芽はもともと存在するだろうから。

Vol.67 テレビドラマ(パート5)

 テレビドラマ『泣かないと決めた日』。主人公はイジメと闘う毎日だったが、その同じ職場に主人公を支えてくれる人も何人かいた。彼らの言葉は主人公を勇気づけた。それらの言葉は“いつでも”“どこでも“誰にでも”心に響くもののようなので、ほとんどドラマの中の台詞のままここに記しておきましょう。「生き残りたいなら強くなれ」「自分しかできないことを見つけていかなければ辞めるしかない」
「逃げ出さないことがチャンスを生かすこと」「どこにいても、何をしていても、やるべきことをやり続けていると見えてくるものがある。それが人生の宝物になる」
「どんなに辛くても逃げずに立ち向かえば誰かの心に残る。誰かが見ていてくれる。このまま黙って消えたら自分の思いもやってきたことも何もなかったことになる。このまま逃げたら一生変わらないまま」 以上が主人公を励ました言葉だが、それに対して主人公が語った言葉は次の通り。「このまま逃げたら弱いまま」「私に後ろめたいことは何一つない。自分に恥じることは一つもない」「信じて見てくれている人はいたのに私が見えていなかった。本当は一人でないことに気がつかなかった」「全てを失ったと思っていたが、そこから一歩踏み出せば何かが変わり何かが始まる」 以上のようなものだった。これらの言葉は何もドラマ上のことだけに限らず我々が生きて行く上でも実際の生活場面においても必要とされるもののようだ。特にそれはドラマと同じように職場で生かされれば良い環境作りが期待されるだろう。そういう取り組みの必要性を提唱したのが今回のドラマだったように思う。

Vol.68 テレビドラマ(パート6)

 人の心の中には“悪いもの”が存在する。と、そんなことばかり聞かされると何だか人間が怖くなってくるが、しかしいつまでも悪いままである訳ではない。そのうち何らかのきっかけに改心されて“悪いもの”は“良いもの”に変わっていく。 イジメを扱ったドラマ『泣かないと決めた日』でもその改心の様子が描かれていた。罪悪感を覚えて自らイジメを止めた女性同僚もいた。しかしそう簡単にはいかず最後まで「何で新人のサポートをしないといけないんだ!」と怒りをぶちまけていた男性同僚がいた。おそらく彼自身が新人のころ助けてもらえなかったのだろう。そして助けてくれなかった人たちは彼の心の中では“悪いもの”として存在することになった。そしてその“悪いもの”はイジメという形で吐き出されることになった。 このときイジメ人間に必要なのは彼の中の“悪いもの”が心の広い人に受け止められることだ。そうすれば広く良い心の中で“良いもの”になる可能性が出てくる。ところでその“悪いもの”とは一体何なのか?その成り立ちを分析的に振り返ってみよう。思うにイジメ人間は子供の頃から抱えてもらったという経験に乏しいのだろう。その結果抱えてくれなかった大人たちは“悪者”すなわち“悪いもの”となって子供の中に存在している。
 そんな人は何かのきっかけで心の中の“悪者”に自分自身が成ることによって誰かを攻撃する。それがイジメだ。このドラマでも主人公は攻撃されて崩壊しそうになった。しかし主人公はその困難な状況に持ちこたえた。このとき主人公の中で何が起こっていたのだろうか?まわりで支えた人たちは主人公の心の中の“良い部分”となり侵入して来る“悪者”から主人公を守った。その主人公の立派な姿から“良い部分”をイジメ人間が取り入れることができれば、イジメ人間の中にも“良いもの”が出来上がる可能性がある。 以上のように多分にゴチャゴチャした内容になったが、とにかく必要なのは“悪いもの”も抱えてくれるふところの深さだ。いかに“悪いもの”も抱えられれば“良いもの”に変わる可能性がある。結局、このドラマにおいてもイジメ人間は主人公に逆に抱えられて改心して行ったと言えるだろう。

Vol.69 “のぞみメンタルクリニック”の治療方針

 当“のぞみメンタルクリニック”の治療方針につきまして改めてまとめました。当初より御本人の意向を考慮しながら以下のどれかを選択していきたいと思います。
(1)薬物療法only:各症状を緩和するためのもの
   例えば、
   ・不安・イライラ感→安定剤
   ・気分の落ち込み、食欲不振→抗うつ剤
   ・不眠→眠剤
(2)精神療法only:
  ①心身症的アプローチ;
   ・日常生活上のストレスについて調べ、次にその対処法を考える。
   本人の取り組むべきこととして、
   ・頑張り過ぎていれば余裕を持ってやる
   ・仕事量が多過ぎれば相談して軽減してもらう
   ・ストレスの原因である人間関係のあり方を見直す
   職場も含めて取り組むべきこととして
   ・ストレスなら両者の間に第三者が入る
 ②精神分析的アプローチ;
   ・対人関係の葛藤について掘り下げて考える
   ・現在の葛藤は過去の重要人物との関係の再現
(3)薬物療法and精神療法:   ・薬物で症状を緩和しながら精神療法を進める
   ・精神療法は(2)と同様
 以上です。御本人の希望により上記の(1)(2)(3)のどれかになりますが、治療過程の中で適宜変更となることもあります。
 その基本姿勢は現在の状況を見つめ直し過去も振り返ることによって未来に臨んで行くというものです。また、クリニックでの負担費用につきましては全て保険診療のみですので規定の3割となります。

Vol.70 アニメ(パート1)

 最近、アニメ『ワンピース』をDVDで観ている。これは少年漫画雑誌に連載されていて子供から若者たちに人気があるらしい。しかし我々のように年輪を重ねた年代からは別の見方ができるように思う。このアニメを観ながら私の頭には日本昔話『桃太郎』や書『甘えの構造』(土居建郎)などが浮かんできた。
 童話『桃太郎』と言えば主人公の桃太郎が猿や犬やキジを引き連れて鬼が島に鬼退治に出掛ける物語だ。そして鬼との闘いに勝利して宝物を持ち帰る。一方『ワンピース』では若者男女6人とトナカイ(疑似人間)1人の計7人が海賊船に乗って悪者たちと闘っていく。両者とも子供が悪者と闘う物語だが、別の味方をすれば困難を乗り越えることによって人が成長する様を描いているようだ。
 さらには書『甘えの構造』の中にも『桃太郎』の話が出ていたのを思い出した。桃太郎はなぜ鬼退治をしないといけなかったのか?その理由が書の中で次のように述べられている。
 日本は“甘え社会”であり親は子供を厳しく育てることがない。従って親は子供にとって“闘う”相手にならない。もともと子供というのはまず反抗期に親と“闘う”ことによって成長していくものだ。ところが親が“闘う”相手にならないとあらば親以外の強いものと闘う必要が出て来る。その姿を『桃太郎』の中で桃太郎が実践していると言う。一方『ワンピース』の中で主人公たちが鬼や悪役と闘うのもそれと同じ意味があるように私には思えた。
 以上のことは西欧で考えられた精神分析理論にもとづいている。つまり子供が親に“反抗する(闘う)”のは親の力強さを獲得するためだと言う。すなわち西欧では子供の頃から“闘う”準備がなされていることになる。一方、日本の場合は家から外の世界に出てからその“闘い”が始まるのだが、その外での“闘い”は親との関係の“やり直し”と言えるかもしれない。

Vol.71 アニメ(パート2)

 人気アニメ『ワンピース』のテーマの一つは“絆”だ。7人のメンバーは悪者と闘うことによって仲間の絆も強くなっていく。もともと彼らは自己主張の強い一匹狼タイプなのだが、最強の悪者を倒すためにチームワークを組む。しかしチームワークを組みながらも各自は一匹狼らしく自分のできることを精一杯やっていく。つまりそれは自分の役割を果たすことを意味する。それは他のメンバーを信頼していないとできないことだ。そこにお互いの信頼感と仲間の絆が生まれる。以上のようにして一匹狼とチームワークとが矛盾することなく結びつく。
 一方、この『ワンピース』を観て連想するのは“学生運動”だ。というのは両者とも人は世の中に出て“闘う”体験をするという意味合いがあるからだ。さらに“学生運動”もチームワークなので仲間の絆が芽生えたこともあったかもしれないが、結局は逆に仲間同士の争いをもって終焉してしまった。仲間同士の信頼関係の崩壊だ。事が思い通りに運ばないと責任転嫁したくなるのが人間の心理のようだ。
 ところで参考までに“学生運動”について要約すると次の通り。1960年代から70年代にかけて起こった。もともとは研修医制度改革に端を発したのだが、それに安保闘争という政治問題が結び付いた。より良い制度を作ろうという強い思いからであったことには間違いない。
 しかし“学生運動”はあくまでも“デモ”であり民衆の支持を得るためのものだったと思うのだが、余りに過激的な行動に走ったり仲間同士の争いを起こすなどして暴走した。一般国民の支持が得られなければ何の意味もなくなる。次第に初期の目的から外れて一部は犯罪集団と化し、あの有名な『浅間山荘事件』を契機に“学生運動”は消滅した。この事件は2002年に映画化され最近テレビでも放映されたので記憶に新しい。
 この運動に参加した学生たちのその後は?彼らの証言を集めた『全共闘白書』(新潮社)を読むと、その中に「そういう時代の変革の中に自分が参加できたことを誇りに思う」という回想がある。そこには満足感が存在することから察すると貴重な体験をしたと感じた人がいたことは確かのようだ。

Vol.72 アニメ(パート3)

 少年漫画『ワンピース』に登場するトナカイ(名前;チョッパー)の存在が気になる。彼は生まれたときから鼻が青いという理由で群れからも親からも群れからも見放された。何とか仲間を作ろうと今度は人になる実を食べて2本足で立ち言葉をしゃべるようになったが、見掛けが完全な人間ではないために化け物扱いにされた。彼はもうトナカイでもなく人間でもなくなった。彼はもう何者でもなくなった。
 それは漫画上の空想世界の話ではなく我々の現実世界でもあり得る。すなわち例えば“deprived children(剥奪された子供たち)”の存在だ。彼らはまわりの誰からも認められなかったが故に“一個の人間”として存在しない。すなわち自己の存在を剥奪されて“非存在”の状態になっている。それはまるで“物”のような存在だ。
 この“deprived children”については書『被虐待児の精神分析的心理療法』(金剛出版)の中に出てくる。彼らの大きな特徴は大人に対する著しい不信感だ。従って彼らは施設に送られた後に治療スタッフと関係は大変なものとなる。スタッフの基本的態度は子供たちの攻撃に耐えることだ。が、ただ耐えるのではなく子供たちの心の中をよく理解して上で耐える。すなわちスタッフは子供の“怒り”を代わりに抱えることになる。その結果、子供たちの“怒り”の感情は和らぐと同時に自分を受け止めてくれる人と出会うことになる。以上のように子供は『認めてもらっている』と感じて初めて一個の人間として存在する。
 そのよう大人の役割をこの少年漫画『ワンピース』では二人の医者が担っている。人間に鉄砲で撃たれて傷ついていたチョッパーを助けたヤブ医者とチョッパーに医学を教えた女医だ。この二人が親代わりのような存在だ。すなわち親子関係をやり直したと言えるだろうか。

Vol.73 アニメ(パート4)

 アニメ『ワンピース』に登場するヤブ医者は「人はいつ死ぬのか?不治の病におかされたときではない。人に忘れられたときだ」と語る。これは言い換えると「人は誰かに関わってもらわなければ一個の人間として存在しない」という意味だ。すなわち人は誰かに認められて初めて一個の人間として“実存”する。
 その彼の言葉には「相手が誰であろうが一個の人間として認めて行きたい」という決意が含まれている。そんな信念をこのヤブ医者は持っていたからこそ親からも群れからも見放されて“実存”していなかったチョッパーの相手になれたのだ。その結果、チョッパーは心を取り戻し“実存”することができた。
 一方、哲学的な意味での“実存”には「自分を自分でつくる」という積極性がある。それは『ワンピース』のメンバーが悪者と闘って成長していく姿で描かれている。
 さてヤブ医者は重い心臓を患っていたがどんな名医も治せなかったので死に宣告をされたも同然だった。そんなとき山であざやかな桜を見て感動して病気が良くなった。実際には重い心臓病が感動で治ることはないにしても症状が軽くなるということはあるかもしれない。そんな体験をしたので感動で病んだ人々の心を治す研究を始めた。すなわち桜を極寒の国に咲かせて感動してもらおうという夢だ。
 ヤブ医者はその桜の研究を30年間続けてようやく完成した。そういう彼の生き方がチョッパーに夢と希望を与え、チョッパー自身がどんな病気も治せるような医者になる決心をする。
 このヤブ医者はいかがわしい薬を煎じるがためにヤブ医者と言われるが、それは人物を強く印象付けるためのオマケのように思える。彼が最後に「良い人生だった」と叫んだところから見ると、その登場理由は人の心を救い夢と希望を与えてくれる人物の象徴であるように思える。

Vol.74 “O(オー)”

 “O(オー)” は聞き慣れない記号だが物事の奥に潜んでいる未知の真実と言ったものだ。それは誰かの心に捉えられて例えば言葉や芸術作品(音楽や絵画など)に形を変えられる。そんな真実を見抜く力のある人の一人が私の知っている90代の女性Aだ。Aさんと話をして私たちがいつも新鮮な気持ちになるのはそういうAさんの感性に触れるからだろう。
 今回のAさんの話もまたは私たちの心に響いた。それはAさんが知り合いBに会ったときの話だ。Bさんが「認知症の夫が退院して帰って来る」と話したのに対して、Aさんは「今、旦那さんと結婚したと思いなさい」と答えたと言う。Bさんの言葉には認知症の夫の世話がどうなるかという不安が込められている。それに対してAさんは「これまでとは違う夫婦生活からまた得がたいものが得られるでしょう」と勇気付けていると言えるだろう。
 Aさんによると「今、旦那さんと結婚したと思いなさい」という言葉は何もないところからフッと生まれたものだと言う。そのときAさんは「“O” を感じた」と言う。すなわちその言葉はAさんが見い出した真実というものだ。
 ところで久しぶりに聞く“O” 。もともと“O” とはビオンの精神分析の理論だ。何故Aさんが“O” のことを知っているのかと言えば、私が以前“O” のことを書いたものをAさんに渡したことがあったことによる。Aさんには“O”の内容が印象深くて何度も繰り返し読んだと言う。
 しかしAさんは“O”の内容を読む前から日常生活の中で自然に“O”を感じ取って来た人だと思う。さらに今回のBさんとの対話からも分かるように、その感じ取った真実を言葉に変えて相手に返すこともAさんは実行している。そうやって多くの人たちの心の支えになってきたのだろう。そしてBさんもまた新たな気持ちで認知症の夫と向き合って行くことだろう。

Vol.75 “O(オー)”の続き

 前回書いたAさんはさらに「“O(オー)”はゼロとも読める」と語る。ゼロとは何もない状態。しかしその何もないところから何かが生まれる。つまり無から有が生じる。そうやって何ものにも左右されない心の状態にしてAさんの「いま結婚したと思いなさい」という言葉が生まれた。
 ところで大概我々はそれまでの知識や記憶を元に言動を取る。それは当たり前のように行われ誰も特に問題視することはない。それで十分日常の生活は事足りているから。一方Aさんのように自分の感性で話す人の方は数少ない。そんな人に出会ったとき私は羨ましく思いつつも尊敬の念を持って接して来た。
 そして今回のAさんの姿勢は我々治療者の行う面接にも通じる。すなわち「記憶なく欲望なく」という面接の心得だ。この「記憶なく欲望なく」という聞き慣れない言葉はどういう意味かと言えば、これまでの記憶に頼ったり治療に熱心になるべきではないということだ。すなわち面接では「自分を無にしろ。直観を働かせよ」ということだ。そうでなければ変な先入観が入って本当の姿を見失うことになる。
 だがAさんのように何もないところから考えがわいてくるなんて至難の技だ。その結果、我々が陥るのは「分からない、理解できない」いう精神状態だ。そして我々は不安や苦痛に襲われる。さらに我々はその苦しさをまぎらすために既成の知識を持ち出して当てはめようとする。
 それは普通のことのように思えるがやはりただお決まりの考えに当てはめるだけだ。むしろその苦痛に耐えてこそ真実の姿が見えてくるに違いない。例えば我々の中に起こる苦痛は相手の感情でもあることに気づく。そういうように『何もないところから何かを生み出す』ことの難しい我々には自己の苦痛の中から何かを感じ取っていく方法が残されている。

Vol.76 信号

 治療の現場では「何らかの症状が出るのは病気の黄色信号・赤信号」と言われる。その信号を無視していればやがて本格的な病気になる。例えば現代に多いのがうつ病などの精神疾患や胃潰瘍・喘息などの心身症的疾患だ。その信号をもとに治療者が治療を進めていく過程がいわば“交通整理”と言えるだろう。
 その“交通整理”は具体的に次のように行われる。イヤと言えないで本人が頑張り過ぎていれば仕事量などの負担を減らす。本人が100パーセントを目指せば結果を出すのは難しいので100パーセントにこだわらず60パーセントでよしとする。言葉は悪いが「テゲテゲに」を心掛ける。
 また人間関係上のストレスも多いので、あらためて人間関係のあり方を見直すことになる。一般的な処世術として「言いたいことを言えばもめごとになるから言わないようにする」というものがある。しかし自己主張してはっきり断らないから多量の仕事を引き受けてしまうことも事実だ。そして疲れ果てて病気になる。従って我々治療者ははっきり言う。「自分の意見を言わないから人間関係がうまくいかない。逆である」と。
 以上のような“交通整理”は治療場面では普通のことだが、最近では職場でもそういう“交通整理”が行われるようになったように感じる。その“交通整理”を担う職場の上司は社員の信号を読み取り、最近配置されるようになったカウンセラーや精神福祉士などと共に職場内に起きた問題を職場内で解決していく。
 これは「社員の病気は職場にも問題がある」と捉えるようになった現れであり、病気が職場の問題から切り離され自己責任とされていたことに対する反省であるように思える。今や「100パーセントを目指せば結果を出すのは難しい。100パーセントにこだわらず60パーセントでよしとする」治療的な考え方が職場でも求められる時代になってきたような気がする。

Vol.77 サッカー

 W杯サッカーが盛り上がって来た。大会前は日本代表に対する期待は低かったが初戦に勝利すると一変した。そして決勝トーナメント進出を決めてさらに盛り上がりを見せている。
 さて私自身がサッカーに注目するようになったのは2002年の日韓大会の頃からだ。そのときの日本代表監督がトルシエ氏だった。同監督と選手との間にバトルが起こっているようであり、試合だけでなくそういう人間模様が私には特に興味深かった。
 どうして監督と選手との間にバトルが生じたのだろうか?同氏は選手に自己主張することや自分の気持ちを前面に出すことを求めていた。あるときは気持ちを表に出さない選手を練習場から出て行かせたこともあった。そのバトルはみな選手にアグレッシブな気持ちを出させるためだ。
 しかしなぜそんなにアグレッシブになる必要があるのか?言ってみればサッカーは戦争なのだ。まさに生きるか死ぬかの瀬戸際の戦いである。それは試合を観ていると一目瞭然だ。蹴り上げる、膝蹴り、肘打ち、押し倒す、引き倒す、頭突きなど何でもありだ。大人しくしていたらやられてしまうだけ。
 それでも外国人選手に引けを取らないくらいアグレッシブな選手はなかなか現れなかった。というのも日本人は自己を抑えて和を重んじるという伝統が根強いからだろう。しかしそんなアグレッシブな選手が日本にも育っていたことを証明したのが今回活躍している本田選手の登場だ。彼は自己主張が強くアグレッシブで果敢にゴールを狙う。明らかにこれまでの日本人とは違うタイプだ。そして彼が今大会の日本代表を引っ張っている。
 元日本代表の中田英寿氏が今回のデンマーク戦後に笑顔で「こういう試合を観たかった」と語った。この試合で日本は守りに入らず果敢にゴールを狙う戦い方をしたのだ。このW杯という大舞台で日本代表が変貌しつつあることを多くの人たちが認めた。

Vol.78 サッカーの続き

 W杯サッカー決勝トーナメント1回戦、日本はPK戦でパラグアイに惜敗した。一人だけPKをはずした駒野選手は号泣。他の日本選手たちが入れ替わり立ち替わり慰めている姿が印象的だった。その様子はその後の番組でも繰り返し放送されたが、その映像の中に一人のパラグアイ選手が駒野選手に声を掛けている場面があった。何と言っていたかは分からないが、それは涙に暮れる同選手に対する心遣いでもあり、紙一重で勝負を分けた敗者に対する敬意の現れでもあったように思う。
 さて試合後のインタビューで何人かの日本選手がチームワークという言葉を口にしていた。個々の力では世界との間にはまだレベルの差があるが、日本はチームワークという団結力で決勝トーナメントまで進んで来たことを訴えていた。
 その強い団結力は我々日本人の目には和の精神と映った。すなわち『仲間意識を持って協力し合って困難なことにも立ち向かう。そして辛い気持ちも分かち合う』というものだ。今回の日本代表のチームワークを見て『そういう団結力が今の日本の企業にあれば』と思った人たちもいたようだ。
 それは経済に懸念を抱く人から出た思いだが、私自身は治療現場で病的状態に陥った人たちに接していて次のように感じている。欧米化に伴って個人主義が日本の組織の中に浸透してきた。そのためにミスも病気も自己責任とされて個人は組織という表舞台から切り離されて行く。
 あらためて今回の日本代表を見てみるとPKでミスをした選手をみんながどれだけ支えてあげたか。ミスを自己責任として済ませないでみんなで分かち合った。そのようにただ個人主義を貫くのではなく和の精神が入り込んだところに日本サッカーの独特性があるように思う。
 そういう日本の独自性はこれからの企業にも必要とされるのではないかと思う。個々人を尊重せずして団結力は生まれず、団結力なくして発展は望めない。そんなことを日本サッカーが示してくれた気がする。

Vol.79 小説『波』

 小説『波』。作家は山本有三(1887~1974)。1923年に朝日新聞に連載され、1930年(昭和5年)に岩波文庫から出版された。
 私がこの小説を読んで大事なところだと思ったのは「人は過ちを起こして悩み苦しむものだ。それは子供や孫に伝わって行く。それは押し寄せては引き、引いては押し寄せてくる波のようなものでありどうすることもできないものだ」という内容だ。 
 この話は主人公の教師が芸者に出された教え子を助けるというもの。今では考えられないことだが、昔は子供が芸者に出されるという時代があった。その裏には貧困という社会事情がある。そして2度目に芸者に出されたときに逃げ出して来て主人公の家に転がり込んだ。そして成り行きのようにして二人は結婚。しかし結局、先生と生徒の関係は抜け切れず、一年もしないうちに妻は若い男と家を出て行ってしまった。それを主人公は自分のおかした過ちだと苦悩する。
 さらにそういう過ちは親から子供に伝わって行く。それはどうすることもできないもの。それが人の世の“真実”なのだろうから読者をホッとさせるのだが、一方でどうにもならないものをどうにかしようと考える人たちがいることも確かだ。
 特にそれは治療場面で見受けられる。どうにもならないことで苦悩し病気になる人も出て来る訳だが、そのときどうにもならないことをどうにかすることが治療になる。例えば親との問題について言えば、親との関係は治療者との関係でやり直すことになる。
 この小説のように「もうどうにもならない」と自然の成り行きに任せるのが伝統的な日本の考え方のようだ。一方「イヤどうかしたい」と積極的になるのが西欧的な思想にもとづいている。そして現代の日本社会はその両者がごちゃごちゃになって混乱しているように感じている。

Vol.80 自己主張

 心身症の病因の一つに『言いたいこと言わない』という性格がある。人は言いたいことを言わなければストレスがたまって自律神経のバランスが崩れることにより体に変調をきたすのだ。
 しかし昔から私のまわりは言いたいことをはっきり言わないのが礼儀作法のような雰囲気だった。自分の意見をはっきり言えば和が乱れる。だからみんなまわりに合わせる。それでみんな仲良くやってきた。それが日本の伝統的な和の精神なのだ。 私だけでなく多くの人たちがそのことに疑いを持たずにやって来たのではないだろうか。そして私自身は心身症の治療に関わり出してようやく『言いたいこと言わないから病気になる』という考え方に出会うこととなった。そのときから『言いたいことを言うべきか言わざるべきか』の葛藤状態に突入した。しかし私の葛藤には関係なく「自己主張すべきだ」という旗印の下に治療の一環として自己主張訓練が行われる。
 ところで自己主張するというのは西欧の考え方と言えるだろう。例えば精神分析がそうだ。フロイトのエディプスの理論では子供が自己主張する様子が描かれている。つまり子供は親と“闘う”ことによって大人の強さを身に付けていく。“闘う”というのは親の意見に物申すことであり自己主張である。そういうふうに西欧では子供頃から自己主張訓練がなされているようである。 一方、和の精神が重視される家庭では親にも従順であり自己主張訓練の場に乏しい。その後学校や職場に入ることによって徐々に自己主張を求められることとなる。そしてその変化に順応すればよいが、それが難しければ例えば病気になるかリタイアすることになる。 ならばそうなる前に子供の頃から家庭で自己主張の練習がなされていたらよいのではないかと思われる。しかし家庭環境では昔のままの“密着型”親子関係が支配していて親に従うのが主流の考え方だ。 その結果、私たちは西欧的な考えと日本的な和の精神の間で揺れ動くことになる。その一方でその葛藤状態に気づかなくて混乱状態に陥ることも多いように思う。

Vol.81 親子関係(パート1)

 親子関係というのは日本と西欧ではかなり違うようだ。聞くところによると英国では食事のとき両親と子供は同じテーブルに着くことはないらしい。我々日本人から見ると考えられないようなことだが、それくらい英国ではしつけが厳しいということだ。
 最近はいろんな事件が起こって日本でも親との問題が論議されるようになったが、そういう議論はまだまだ親側に抵抗があるように思われる。それは治療場面においても同じだ。治療者側からすれば親にも問題があると言いたいのだが、そこに問題があると言われることは、まさにそれまで信じて来た家族神話が崩壊することになる。昔から一家団欒の安らぐ場所として家族が存在してきたのだから。
 確かに親に問題があるというふうに持っていくと犯人探しが行われるようで余り気持ちのよいものではない。そういうこともあってか精神分析では面接者と本人との2者関係で治療は行われる。また心身症の治療においても家族と切り離されて治療が行われる。いずれにしても治療者との関係が親子関係の代わりになると言ってよいだろう。
 ところで親子関係と言えば当然のこととして父子関係と母子関係の2つがある。どちらがより重要かと言うと疾患によって比重が違ってくる。精神分析に従って述べてみれば、例えば神経症では3才頃(エディプス期)の父子関係が問題であり、拒食症などの摂食障害では生まれてから3才頃迄の母子関係に問題がある。
 従って父子関係が問題なら反抗期の親と子供の闘いが欠如していたのだから、そんな関係が治療場面で再現されることになるだろう。また母子関係なら母親が赤ん坊の訴えをうまく汲んでやれなかったというのが問題点だ。そこで治療者側の役割は彼・彼女たちの言動の意味を理解しつつ抱えることにある。この母子関係については分析の中でもクラインやビオンの理論が卓越している。