Vol.61 物理学者で随筆家

 世界的に特に有名な物理学者はアインシュタインだが、私にとって印象深い日本人の物理学者は寺田寅彦だ。寺田寅彦は夏目漱石の弟子でもあり、漱石の小説『三四郎』に物理学者“野々宮”先生のモデルとなって登場する。寅彦は純粋に科学の研究に打ち込む学者である一方で、人の悪口を言わず思いやりのある人物でもあったと言う。そういう高邁な人格ゆえに寅彦は漱石から尊敬の念や親愛感を持たれていたようだ。また寅彦は多くの随筆を残している。私自身大学入試の国語の読解力を試す問題集か何かでその随筆を読んだ記憶があり、私にとっては物理学者というよりはむしろ“随筆家”寺田寅彦のイメージが強い。

 ところで寅彦の人物像を物語るエピソードがある。「悪人と思われるような人も含めてどんな人間にも必ず一つくらいは良い所があるのだから、悪い所ばかりをけなしたり嫌がってはいけない」と寅彦は家人にいつも口にしたと言う。そして家に出入りする者や女中たちを変えることを嫌がったと言う。そんな寅彦のエピソードが私の記憶に印象強く残っている。

 さて小説『三四郎』が書かれた頃の日本社会は急速に近代化しており、多くの人々はこれからどう生きたらよいか迷っていた時代だ。その状況は現代に似ていると言われる。すなわち現代の多くの人たちがストレスにさらされ疲れ果てている。当時の漱石自身も葛藤の中で神経衰弱の傾向にあり身体的には胃潰瘍ができて吐血している。今も昔も葛藤状態がストレスになって心身に病状をきたすことに変わりはない。

 一方寅彦は特に人間の良いところを中心に見ようとする傾向にあり、そういう意味では心の葛藤を回避していると言えなくもない。さらには学問に没頭する寅彦の姿は「学問に逃げている」と揶揄されることもあったようだ。しかし漱石自身は寅彦を尊敬していたことは確かであり、それはやはり寅彦に“人格者”の雰囲気がただよっていたからに他ならないと思われる。

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