Vol.59 小説の中の物理学

 物理学の話は思わぬところに登場する。例えば漱石の小説『三四郎』がそれだ。物理学者の野々宮先生は暗い穴蔵の中で光の圧力の実験をしている。雲母でできた薄い円盤を水晶の糸につるし、その円盤に光を当ててその動きを観察するのだ。

 光の圧力とは何か?光は粒子だから光が物に当たれば押す力となる。つまり光の粒子説にもとづく実験だ。それまで「光は波動なのか?粒子なのか?」という論争があったが、物に光を当てると電子が飛び出すという現象(光電効果)から光は粒子であると結論された。それで結局、光は波と粒子という2つの性質を同時に持つこととなった。

 その光の圧力の観察を毎日毎日暗い穴蔵の中でやっている野々宮先生を見て、三四郎はそれが何の役に立つのだろうかと思う。そういう科学的な実験や発見というのはその時代には何に役立つかはまだ分からないにしても後々に何らかの形で利用される日がくるものであるのだが。しかし三四郎にとって当面の課題は今をどう生きるかということなのだ。

 その時代は日本社会の変貌の時代だった。西欧の様々な文明が入り込み、その多様化した世の中にどう対応していくかが問われた。つまりは自分の生き方を自分でどう選択するかを問われ出した。いつの時代でもどう生きたらよいかというのは難問であり、三四郎もまたストレイシープ(迷える子羊)状態に陥っていた。

 そんな三四郎にとって将来何の役に立つか分からないようなことに専念する野々宮先生はどう思えただろうか。ただ純粋に科学のために身も心も注ぐという生き方に対し尊敬の念を抱いたに違いない。一方、そういう生き方のできない三四郎は時代に翻弄されながらも耐えて生きて行くしかない。まさにストレイシープが一つの生き方であると言えるのかもしれない。

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