Vol.48 チャレンジ

 小説『希望の国のエクソダス』の中学生たちは「勉強して良い学校に入る」という大人の敷いたレールに乗ることはなかった。彼らは自らが事業を起こすことよって閉塞状態から脱出した。すなわち彼らは自らが主体的に生きることを選択した。

 しかし現実的には新たなチャレンジには大きなリスクを伴う。失敗すれば自己責任ということになる。そうであれば精神的にも金銭的にもダメージを受ける可能性がある。ただ間違いなく言えることはたとえ上手くいかなかったとしても自らの力で閉塞状態からの脱出にチャレンジしたという“実績”が残るということだ。

 私自身のプライベートなことについて話させてもらうと私も何度か閉塞状態からの脱出を試みたことがある。最初のチャレンジは職業を変えるための脱出。そのままそこに居ても将来に明るい光は見えてこない。見えてくるのは不満たらたらの自分自身の姿だ。結局そこを辞めて昔からのドクターの夢を追うことにした。

 2番目のチャレンジは私がドクターになってから所属した治療現場からの脱出。その現場には様々の人々の様々な情動が飛び交っていたがその解釈がされず混沌状態に陥っていた。もちろん私自身もどう動いていいかも分からない。結局私はその場を脱出した。そしておそらく混乱の糸をほぐしてくれるであろう分析に自分の望みを託した。

 今思えばその2つの脱出は自分がどう動いていいか分からなくて息苦しくなった結果だが、やはり人は主体的に動けないと自分の存在自体が危うくなるということだろう。しかしそれは個人的な問題であって実際にまわりの環境が閉塞状態にある訳ではないのかもしれない。従って閉塞感から脱出するにはその場所からの脱出を図って見る方法と、一方でその場に留まってそれまでの自分から脱皮する方法があるように思う。

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